空手に先手なし。空手道とは勝敗を究極の目的とする武術にあらず。 有形無形の試練を乗り越え、錬磨の汗の中から人格完成をはかろうとする武道である
武道は武術と精神の学びを通じて人間形成を目指すもの、空手道もまた目的は人間形成であり、その目指し歩む過程が ”道”である。道は目標に向かって到達するための歩む姿であり、その先に人間形成という目標がある。 伝統ある日本の武道である空手道は、ただ強さを求めるだけの攻撃的な武術ではなく、だだ勝敗を決めるだけのスポーツでもありません。 自己を磨き、人格完成を目指すための術。そして自分の肉体を使って自分の身を守るための護身術。これが空手道の本質なのです。
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「空手に先手なし」 「空手道を修業する者は、いついかなる時でも、自分から攻撃を仕掛けてはならない」という戒めです。 空手道は「君子の武術」といわれています。空手の修練者にとって、自分の肉体は武器であり、技を見せるのは、 侍が刀を抜くのと同じこと。それゆえひけらかすような行為は厳しく禁じられているのです。また、この言葉は単純に「反撃なら許される」 |
「空手に構えなし」 「相手の動きにとらわれて身をかたくしてはならない」という戒めです。常に心に余裕を持ち、いついかなる方向から 攻撃されても対処出来るようにしておくという事です。空手の型や組手は必ず自然体からスタートします。 リラックスした自然な体勢が理想なのです。ただ体に構えはありませんが、心に隙があるとそこにつけ込まれるゆえ、
これには構えが必要です。そして武道の奥義はこの「心の構え」すらなくしてしまうという事。いわゆる「無の境地」なのです。
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「生涯武道」と云う言葉があります。目先の強さだけを追うのではなく、日々の生活 生涯を通じて武道を修練して行こう、という姿勢です。自分自身の中にある雑念、弱さを空手道を通じて 克服していく。この己に打ち克つ事を「克己」といいますがこれこそ空手道の精神の最たるものです。
日々の生活も空手道の修練の場であり、逆に空手道を通じて身につけた、強い心は、毎日を豊かにしてくれるはずです
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空手道に限らず武道を修練する上で重要な四つの要素があり一眼二足三胆四力といわれています
眼とは着眼の事で、目付けといいます。相手の動きをみるのはもちろん、屋外であれば地形・地物
天候等を一瞬の内に察知し、自分の有利な位置にたつ事です。相手と対して、どこをみたらいいでしょうか?
まず相手の目の動きによって心の動きを察知します。しかし、眼にばかり心をとらわれると他の動きが 判りません。
一応は相手の眼に着眼しますが、相手の動静が全部判るよう全体を包むように見る事です。
基本や形の場合は、正面又は、進行方向の自分の眼の高さを見ます。特別の場合を除き下を見るのは
着眼点もはずれ姿勢も崩れるので絶対いけません。
足とは運足のことです。
攻撃防御ともに運足が速く軽く、しかも、重心が安定しなければなりません。必要以上に高く跳んだり
重く足を引きずっては体が動きません。地面にはつかず、離れすぎず軽快な足捌きが必要です。
胆とは、胆力の事で、どのような場合にも、驚いたり慌てずに何事も冷静に判断して、処置する精神です。
力とは力のことで、筋力とか持続力とか瞬発力等があり、いずれも大事な要素ですから
日常鍛錬するよう心掛けることです。初心者は無駄な所に力が入りすぎ、かえって技を邪魔することが
あるので、力の使い方を良く研究しましょう。
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空手道における形
どの形もすべて受手から始まっている。これは「空手に先手なし」の精神を単的に表現するものである。この訓戒は
空手道を一言でいいつくしていると断言できる。古来、空手は君子の武術といわれ、敵の攻撃を受けて始めて止むに止まれず、 鍛えに鍛えた手脚をもってこれに対応するもで、常に謙譲の心と、温和な態度で人に接しなければならないという教えである。
心と技、内外兼ね備わってこそ真の空手道といえる。
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形とは
形は受、突、打、蹴りの基本技を合理的に組織構成したものであり、四方八方に敵を仮想し、定められた演武線を前進後退、 あるいは転身して、演武するものである。一挙手一投足、すべて攻防の武技の応酬であり、無意味な動作の一つもない。 古来、空手の稽古は形を中心として行われ、そのおのおのの形は昔の名人たちが長い間の、修練と貴重な体験によって 編み出し、心血を注いで完成したものである。現在、伝わっている種類はおよそ50余りあるが、非常に古い伝統を有しているもの 比較的新しい時代にできたもの、または中世から近世にかけて中国から伝来したと見られるものである。簡単なもの、複雑なもの 長いもの、短いもの、いろいろあり、みなそれぞれ特徴をもっているが、大別して二通りとするかとができる。ひとつは素朴重厚で 雄大な感じのするもので、体力を練り、筋骨を鍛えるものに適したもの、ひとつは俊敏飛燕のようなかんじのするもので、 軽捷機敏(けいしょうきびん)の早わざを習得するのに適したものである。 形に熟練することによって、自然に一身の危急に臨んで応変できる護身の技を体得することになる。 しかも形そのものが完全な全身運動であり、屈伸、跳躍、平均運動などのあらゆる要素を含んでいるため、体育上理想的な運動と されている。形は自分の体力に応じて真剣に習え、短時間で、単独でも、集団でも練習ができる特色を持っているので、老若男女を 問わず、また、いかななる環境にあっても、この道に励むことができる。 |
礼に始まって礼に終る。形を演ずる前後には必ず一礼を行う。両踵を合わせた結び立ちで、両掌は軽く腿に接するよう自然に垂らした
姿勢で体を少し前に屈して一礼する。眼は正面に注ぐ、かたちだけのものではならなく、姿勢を正し、礼譲、礼節をわきまえた心からの
礼でなければならない。恩師船越先生は、空手道を修める者は第一に礼儀を重んじなければならぬ。礼儀を失なった空手は、既に
空手道の精神を失なっている。礼儀は単に稽古中のみでなく、行住座臥いかなる場合にも重んじなければならない、
と述べられている。 ぎょうじゅう‐ざが[ギャウヂュウザグヮ]【行住坐臥】-日本国語大辞典 〔名〕(「ぎょうじゅざが」とも)歩くこと、止まること、すわること、臥すこと、この四つはすべての動作の基本であるところから、仏教では、 特に規律を定め、これを四威儀という。日常の立ち居ふるまい。 また如何なる場所で演ずるにも、謙譲の心と温和な態度、しかも臆することなく堂々たる態度であらねばならない。妙に卑屈になったり 威張ってみたりするのはもっての外である。剛にして柔、柔にして剛、柔即和、剛即和、柔剛は常に和に帰する。 礼儀、礼譲(礼儀正しくへりくだった態度をとること)、礼節は空手道修練の第一義である。 (へりくだったの意味相手を敬って自分を控えめにする) |
構えと残心(用意と直れ)
演武線の中央、真中で一礼したら、静かに左足から先に、次に右足を、左右に開いて(中央左端で一礼したら左足はそのまま 右足を右に開いて)八字立自然体になり、用意の姿勢をとって構える。また閉足立で構える場合は、そのまま足先を合わせる。 構えあって構えなし、といわれるように、意識過剰、カチカチに力んでの構えはとっさに適切な動作ができない 肩、膝の関節の力を抜いて、直ぐどんな変化にも対応できるよう、迅速に動き得るリラックスした姿勢が必要である。ただ下腹は しめて、いわゆる丹田に力を入れ、静かに気息を整え、気持ちを落ち着け、気力、体力の充実を図る事は極めて肝要である。 それとともに、形の最後の拳道を終わっても、すぐ気を抜いてダラダラとするのは、厳しく戒めなければならない。暫時(ザンジ) (少しの間)の油断もなく、いつでも突発的な変化に応じられるように気力を充実させ、しかも静かに元の用意にもどる事が 大切である。ものごとは、すべて終わりが肝心であって、途中がどんなに立派であっても、最後の締めくくりが乱れては 何にもならない。古来、日本武道では残心が重要視されている。空手道修行者は、実技の修練にはむろんのこと、 日常の生活においても残心は必要な心構えであることを銘記(心に刻む)しなければならない。 |
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順序は正しく間違えないように 形によって20拳動、40拳動というように動作の数がきまっている。その拳動を順番に演ずるのである。順序をまちがえたのでは 意味がない。 |
演武線を正確に進退するように
形を演ずるために必要な、前後左右への進退転身を示す路線を演武線といい、演武開始の位置から出発し、定められた路線を 移動し、終了の位置に到着するが、開始・終着の位置は必ず同一点となっている。未熟で足の位置を間違えたり、歩巾が不正確で あれば同一点には戻らない。入念に練習する必要がある。 |
各拳動、動作の意味を明確に理解し、表現するように 形の中にある一挙手一投足は、すべて攻防(コウボウ)(せめること、ふせぐこと)の動作である。ひとつの形には幾多の攻防技が おさめられているので、おのおのについて、よくその なさんとする 意味を明確に理解し、そのように表現しなくては効果は上がらない。 |
目標を正しく把握するように どこからどう攻撃されているのか、どこを目標に反撃するか、目標を正しく把握することは極めて肝要である。したがって、常に 目標から眼を離してはならないし、次の目標へ適確に眼を向けることが必要である。 |
形の特徴を生かして演ずるように 形のなかの各拳動の意味を部分的に明確に理解するとともに、その形全般の特徴を生かして演じなけらばならない。 おのおのの形の特徴をつかんで、ある形は雄大に、あるものは軽妙に。 |
形に、始めから終りまで血を通わせるように 開始から終了まで、一拳動、一動作はそれぞれ関連している。各攻防の動作がポツンポツンと独立しているのではないので、 各技の終了は、それぞれ次の技の開始につながっているのである。ひとたび形を演じ始めたら、最後まで一つの流れをつくり、 血を通わせなけらばならない。 |
形にリズムを与える三要諦(物事の最も大事なこと)を忘れないように すぐれた武道、スポーツ実技は大変リズミカルで美しい。リズムがなければ美はうまれないし、単調なリズムなら相手に乗せられて しまう。形の美の力、リズムは「力の強弱」「技の緩急」「体の伸縮」から生まれる。この三要諦は、形を演ずるのに絶対必要な ものである。むやみに力みすぎたり、やたらに早く演じても、決して真の強さ、うまさは生まれない。力を入れるべきところに力を 入れ、抜くべきところは抜く、このコツを会得すべきである。早くすべきところをユックリ演ずるのでは、調子を乱してしまう。 |
形練習の心得 1.効をあせって先急ぎしてはいけない。 2.熱しやすく、冷めやすいのは禁物。 3.努力の積み重ねが必要である。 4.飽きずに、時間は少なくても、練習を継続することが大切。 5.得意、不得意はあっても、不得意の形を捨てて顧みないのはよくない。不得意だからこそ、よけいに練習を重ねるべきである。 6.形と組手の相互関係を考慮し練習する。 (著者中山正敏 ベスト空手から抜粋) |
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(空手の形は三つの重大な要素がある) |
1.技法の変化 |
一つの形には幾種類かの技法が含まれている。これらの技法を習得することは、形の練習に際してもっとも大事なことである。 |
2.気息の吞吐 (キソクノドント)(呼吸(息)を吸ったり吐いたりする) |
武道に於いてはすべて虚実ということを大事にする。わが身をもって敵の虚をつく、即ち我が充実した力をもって敵の空虚をつくことが 大事である。よって空手においては、気息の吞吐に五種の法がある事になっている。 |
①長呑長吐 | スーと長く吸い込んでハーと長く吐き出す。 | ②長呑短吐 | スーと長く吸い込んでハーと短く吐き出す。 | ③短呑長吐 | スッと短く吸い込んでハーと長く吐き出す。 | ④短呑短吐 | スッと短く吸い込んでハッと短く吐き出す。 | ⑤波型吞吐 | ①から④の結合形で①と②、①と③、①と④、②と③、②と④、③と④等の結合になる。 | 気息の吞吐は、すべて以上の五種十形の中に包含される。形を練習している間の気息吞吐法は、それぞれの動きに応じて前途の 五種十形中のいずれかの形になる。形の練習においては、技法と気息との相関関係を十分注意して研究すべきである。 | |
3.重心の移動(バランス)
重心の安定がなければ、たちまち波錠をきたす、いかに巧妙な技法、軽快な転身も重心の安定を伴わなければものの役にたたない。 (腰を中心に移動(例外を除き上半身垂直) |
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(1)落下 落下とは、落下に対して、大地は体をかわしたり、さけたりしないで、花の落ちて来るそのままの位置でこれを受け止める。 これにちなんで、相手の攻撃に対する受けの態度がちょうどこの大地の態度に似ているという意味で名付られている。 相手の攻撃をそのままの位置にて、がっちり受け止める受け方。 <例>中段突きを定位置にて、横受け又は横打ち。 |
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(2)流水 相手の攻撃に対して、逆らわず、相手の力をその方向に流れさせる受け方。 <例>中段突きを、右半身か左半身かに相手と入れ違いになるように体を転じながら、横受け又は横打ちをもって受け流す。 この時の受け方、態度が即ち掬い受け等も流水の分類に属する。 |
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(3)屈伸 相手の攻撃に対して、我が体勢の屈伸を活用する受け方。
<例>中段突きを、体を引いて猫足立ちの低い体勢で受け、平安初段(松濤館流)の形の前屈立ち下段払い受けから前足を
引いて基立ち、上段打ち落としの屈伸併用 |
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(4)転位 相手の攻撃に対して、その攻撃目標の位置を転じて防御の目的を全うする意味 <例>上段突きを、顔を左又は右へ曲げるか、あるいは、ちょっと腰を落として低くなるだけで攻撃を避けることが出来る。 攻撃目標の位置を移転させることによって、受けの目的を達成する場合を転位という。 |
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(5)反撃 相手の攻撃に対して、体を引くのではなく、攻撃と同じに反撃する。(例)突き・受け(上、中段) 上段突き、受け、中段突き、受け、中段輪受け、バッサイ大、平安四段、三戦 |
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| 君子の拳 | 君子とは学問を積み、徳行を備えた人格高潔の人をいう。即ち空手道を学ぼうとする者は空手道の修業を通して 学問を究め徳行を積んで自己完成に努め立派な人格者になるよう努力しなければならない。 | 初心生涯 | 何事に限らず、最初に決めたことは、謙虚な心で、懸命に努力しているがやがて上達するにつれて 慢心しがちなものである。常に初心をもって物事に対応することが肝心である。 | 牛歩千里 | 牛の歩みはゆっくりしたものであっても、休むことなく歩み続ければ、千里の遠くまでも踏破する事が出来る。 空手道の修業の道程は限りなく遠いが、継続して稽古を続ければ、目的とするところに到達することが出来る。 | 修業千日 勝負一瞬 | 「千日の修業を鍛といい、万日の修業を錬という。斯くして勝負は一瞬」といわれるが心・技・体が一体となってこそ 威力を発揮するものであり、勝負は一瞬に決するものである。その一瞬の為に、千日も万日もの錬磨を しなければならない。 | 果てしない道 | 稽古とは、初歩から順を追って全てを学び、また逆に初歩に戻り、さらに初歩から順に十へと進む。 「順と逆との果てしない習い」ということであり、たとえ皆伝を得たとしても、それで終わること無く、 展開して修業すべきである。 | 壁を破れ | 技術を習得して行く過程で、人は幾度となく「壁」にぶち当たる。その壁を突き破った時新分野を発見し、 心技ともに大きく成長する。時として、その「壁」に気付く事がなければ、進歩はおろか、後退していることさえ 気付かない。常に自覚・工夫して修練せよ。 | |
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守破離とは |
物事を習得する段階を三つにわけた「守破離」(しゅはり)という言葉があります。 もともとは、江戸時代に川上不白が「不白筆記」で、茶道の修業段階の教えとして 紹介されました。以後、諸武芸の修業段階の説明にも使われています。 「守」とは、師匠の教えを正確かつ忠実に守り、物事の基本の作法・礼法・技法を 身につける「学び」の段階をいいます。「破」とは、身につけた技や形をさらに洗練させ 自己の個性を創造する段階をいいます。 「離」とは、「守破」を前進させ新しい独自の道を確立させる段階をいいます。 第一段階の「守」をいかに身につけるかで、「破離」へと続く、その後の自己成長の 大きさが決っていきます。助言を喜んで受け入れていくことで、将来の「離」に 到着した時、自己をいっそう高めていく事ができるのです。思い通りにならない時こそ それまで培った土台が、自己を助けてくれます。自己を発展させる道に、 終わりはないのです。 (社団法人倫理研究所職場の教養 5月号より引用) |